とある卒論合同誌のためのメモ2

・意識の表象理論の問題点のひとつめ、高階の表象理論まわり
 意識の表象理論には課題がある。(鈴木, 2015, 『ぼくらが原子の集まりなら、なぜ痛みや悲しみを感じるのだろう』)の4章を参考にして、本稿で提示する概念(前章で提示された概念)がこれをどのように解決するかを確認する。本節で論じるのは意識経験が成立するために表象が満たすべき条件についてである。この条件は、意識経験としての表象とそうでない表象を区別するために必要になる。
 まず概念として表象に階(order)を持たせる。外界のあり方についての表象を一階の表象(first-order representation)と呼び、一階の表象についての表象を二階の表象と呼ぶ。同様にして再帰的に高階(higher-order)の表象も定義される。この区別を用いて、意識経験となるには脳内の表象の一階上の表象が必要である、とする考え方を高階表象理論と呼ぶ。感覚器から入ってきてすぐの知覚情報が一階の表象であり、その表象をさらに表象する二階のものがあるとき、それを意識的と言いたいわけだ(注)。
 (注:一階や二階という言い回しは相対的なものであることに注意。「冷蔵庫の中にケーキがあります」という書き置きを見たとき、書き置きについての一階の表象が脳内にあることになるが、書き置きそのものは冷蔵庫の中のケーキについての一階の表象であるから、書き置きの知覚表象はケーキから見れば二階の表象である、と主張することもできる。)
 次は、意識的であることを基礎付けるための高階表象がいかなる種類のものであるべきか、ということが焦点になる。知覚表象だと考える立場を高階知覚理論と呼ぶ。この考え方は容易に反駁される。もし意識経験の表象が知覚表象であるのなら、二階の表象は一階の表象という脳状態を知覚的に志向していることになる。しかしそうとは言えないだろう。二階の表象は、一階の表象が志向している事態と同じものを志向しているように見える。もし意識経験を基礎付けるための高階表象が知覚表象であるのなら、意識は脳の神経状態を表現していなければならなくなる。したがって、「外界の事態と一階の表象」の関係と「一階の表象と二階の表象」の関係は同一のあり方をしているとは言い難く、意識経験のための表象は知覚表象であってはならないということが導けることになる。
 知覚表象でなければ何なのか。「知覚表象を持つ自分」をメタ的に表象するものとしての思考的な表象である。思考は発話や内語、イメージとして表象の形をとるが、それらは知覚的な表象ではない。あくまで擬似的な知覚経験を伴う表象であり、クオリアにかんする志向説で述べた「反復的再構成」の部分がこれにあたる。生の知覚情報とは言えないがその擬似的な反復であるということだ。
 思考には概念や言語が要る。しかし幼児は概念や言語を持たない。前の段落の議論のまま進めるのであれば、幼児は意識経験をもたないということになる。直観的におかしい、と書かれているのだけど、それはもう意識経験を直観的にどう認めたいのかという話になるので水掛け論になりそうだ。少なくとも、思考ベースの高階思考理論はそこまでひどく悪いものには見えない。しかし思考や内語についての概念規定が浅いために、まだ別の提案がなされるべきだと鈴木(2015)では述べられている。どちらがより説得的かという話になるのでどうとも言い難い気もするが、意識経験という自然化しようとする目的のために議論が振り回されてしまっているようにも見える。
 もうひとつ言うならば、知覚と思考という切り方が気持ち悪い。結局のところ思考は擬似的な知覚経験だと言うのだから、思考も知覚表象じゃないかという誹りを免れえない。明快ではないという意味でも、高階の表象を持ち出す理論は避けるべきなのかもしれない。