認識論など

 丹治信春『クワイン』の5章「認識論の自然化」だけ読むっていう雑なことをしたのだけど、そりゃあそうよね、やっぱりそうなるよね、と思った。直観に合っていて、これ以上のことは何も言えないと思った。んでだいたい人間が関わることは生物学のスケールに落とせば綺麗に説明できてしまって、形而上学と言っておきながら人間が作った概念を扱うにも、もちろん自然科学のあらゆるものを扱うにも、自然化された認識論として論じるしかない(正確に理解できてないかも)。生物学のスケールは勉強足りないけど平衡系や組織化などの原理で説明できるのだろうし、さらに落とすと化学反応で、このあたりからようやく原子や素粒子の細かさで記述できる。引き合うとか反発するとか、物理学的の次元で説明しようとしているものはさらに何らかの要素に還元されるのだろうけど、情けないことにそこまでは勉強が足りなくてよくわかってない。
 でもって、このミクロな次元での人間の説明の限界がどこにあるのかについて少なくとも今ののんびりとした哲学者には言及することすらできないと思う(断定するほどの自信もないし失礼極まりない)。現実的な話をするのなら、本当にとても雑な言い方をしてしまうけど、人文学だけをやってきた人が人間のこと以外わかるはずがないと思う。だから彼らには、人間が人間として概念を作ってこねこねしていることについて述べるという営為しかできない。ああだめだ、たぶんこのあたりの文章そのうち消すと思う。もう少し現代の形而上学と物理学の勉強をしたほうがいいですね。ああでも擁護するなら、きちんと全部勉強した上で形而上学的なテーマを扱うのなら、それは哲学と呼んでも良いはずで、哲学がその名前として学問を続けるときに果たすべき役割のひとつはこれだと思う。
 将来的に、哲学は倫理に向かうことになるのではないか、もっときちんと説明すると、おそらく人間の関わるものが自然主義的に(丹治の書く「自然主義的な人間観」のもとで、つまるところ決定論的に)説明されることになってしまうのだけど、人間として営みを続けるためには社会運営のための概念装置を残しておかなくちゃいけない(なんかこれ現代思想のテンプレじゃないかなもしかして)はずで、これを私は倫理と言ってしまった。
 ということで思想がなすべきは人間が自然科学から身を守るための壁を作ること、一種の神話を作ることだと思う(『クワイン』の中身をよく読んでないけど違う意味で使ってると思う)。心があるとか意思があるとか。哲学ができるのはその意味での倫理、社会規範を確保すること。そうなると、理論的側面での法学との境界も曖昧になっていくんじゃないかな。ああでも、こんな感じで社会的な側面での必要性はすぐに出てくるけど、人間の認知的な側面が完全に説明されるのには時間がかかるだろうから、そっちの必要性はまだ先かもしれない。どんなに長くても百年はかからない気がしているけど。
 おそらくあと数十年で非道具的な人工知能が人間を凌駕するようになって、そこでも人間の権利を確保しなくちゃいけなくなる気がする。ここまでくると自然科学と人間の対立項が明白になって、うわあ人間やばいんじゃないのって雰囲気ができると思う。もちろん、このあたりも生物学から少し落としたスケールの原理で説明されることにはなるのだろうけど。組織化をして拡散を続けるような自然現象だとか何とか。未来方向の予測を立てるのは学問的営為とは少し違う(現在時での実証性が皆無なので)ので、物語というかSFの価値はここで確保されるかもしれない。だからSFはもっと真な意味で学問的な基礎づけがあるべきで、人間の尊厳を維持しなければならないという(おそらく本能的な)危機感が強くなってくるにつれて活発になる気がする。新しい種に切り替わるとかそういうのな。
 自然科学で解体されない社会秩序を作るというのが、思想的な側面から必要になるし、制度的な側面からも必要になるし、たぶん生活の側面からも必要になる。哲学が受け持つ役割のもうひとつはここ、つまり応用倫理的な話。でその応用倫理の基盤を作るのは人類がこれまでいくつも積み上げてきた哲学の理論たち。私はこのことを現象学を見ていて強く感じていて、過去の思想家の考えたことを「文学を鑑賞する」のに近い形で行っているなぁという印象を持ったりした。なんというか、自然科学に解体されないスケールで人間が構築する概念体系みたいな。
 生物・人間・社会の軸と、物理学・数学の軸で区別できることにはなると思うのです。文系理系の区別を敢えてするならこれ。情報科学については、道具として扱うなら文系がやればいいし、数学的な側面が重視される場面でも能力として頭の良い数学好きがやればいいけど、でもそれで何か新しいことがわかるわけじゃないので、やっぱり数学ではないというか、情報科学は(この文章における区別での)文系の学問なんじゃないかと思ったりする。私は言語や人工知能を専門に選んでいる今、手段としての部分的な理系っぽさを除いては完全に文系的だという印象が拭えない。つまり、探求の対象が人間の関わるものでしかないので、だいたいの還元的な記述は生物学のスケールで留まる。これだと何か新しいことがわかったわけではないし、だいたい下位の原理で上位の現象が説明できましたってだけで終わるので、どうにも面白くない。お仕事として扱うにはまだまだ使えることは多いので良いのだけど、学問的な興味としてはもうすでに尽きつつある。だから物理学やってミクロなスケールの話とか次元の話とか勉強したいと思う。じゃあやっぱり修士で大学からは逃げ出したほうがいいのかなぁ。情報科学や言語哲学や認知科学で熱意が続く気がしない。大丈夫か自分。
 哲学をやった(やってない、正しくは哲学科に所属していた)からこそ今こうして考えることができているのは間違いないのだけど、でも教養の勉強ちゃんとやって理物とか行けば良かったじゃんって思わなくもない。頭が良くないし努力ができないし無理か。
 私のこうした物の見方がこれから大きく変わったりするのだろうか。説明の対象として何か重要なものを忘れている気がしないでもない。ああたとえば、人間の知的好奇心や芸術的感性は生物のスケールで回収できない創発的なもので、既存の原理から外れた新しい原理を世界に生み出すとか、そういうのはどうですか。未来の方向というか、これからの展望みたいな。たしかに、人間が関わる話はつまんないなぁと思いつつも、未来がどうなるかについて考えるのは面白いと思う。

追記(2015-05-16):日記から当ブログにそのままコピーしましたが、後から読み返してみると内容について一切の責任みたいなものを持てません。